ブログでの対話を可能にする条件とは:ブログを楽しむには感情論にならない対話が必要
中国に数ヶ月滞在しているので、行ってみないと分からない日本との違いをまとめようと思っていたのですが、前回の記事を書いた反応があったので、続けて書いていこうと思います。
前回、意見は偏見である、意見はかならず反論でき、意見を持つことはどういうことなのか自分なりに考えてみました。
ブログでの対話は難しいが、あえて挑戦してみよう。
ブログのコメント機能は感情論になると、平行線をたどり、コメントは見えないナイフになり、こころにキズだけを残していきます。
しかし、仲間内でほめたり、おもしろいですね、すばらしいですね、というのは、まず、対話にはなりません。
コメントの機能があることによって、対話が可能になり、そこがブログの面白さであり、同時につまらなさの原因にもなります。
感情論ではない対話を目指して
世の中は正しいことと間違っているという二つの基準では、うまくいかないことがたくさんあり、基準を増やすという意味では、ネットの率直なコメントはその基準を増やすことができます。
対話をする上でルール決めておきます。
1、余計な感情を持ってこないこと
主観には感情が入り込んでしまいます。しかし「ああ、そういう意見もあるんですね」で止めて、それ以上余計な感情を持ちださいでください。どんな意見も反論ができます。意見は個人の意見なので、文化、時代、年齢、性別、国などによって違うからです。
正しいとか間違っているとは簡単に言えません。なぜなら、正しいことも立場が逆転すれば、正しくないに変わってしまうからです。
だから、それは違うでしょという反論は繰り返されるし、あなたの意見は違う、間違っているという反論は、人格までも否定された(これも感情で見ているからです)かのように感じてしまいます。
もし、一つの正しいことであれば、それは真実です。そこには感情は入る余地はありません。意見であるがゆえに、感情が入ってしまうのです。
「ああそういう意見もありますね」は感情論にならないためのルールです。
ネットでの対話で真実を発見することは難しく、意見を出し合うことが限界なのかもしれません。もし、意見にも価値があるとすれば、自分にとってだけでなく、他人や社会にとっても大事であるはずです。
また、真実は自分の都合のいいものばかりとは限りません。それでも知りたいと思うのは、私の欲なのでしょう。
この辺はぜひ皆さんの意見を聞きたいところです。
するどい意見は自分の見えていない、気づいていない部分、言って欲しくない部分を指摘する場合もあります。はっきりしているのは、人に言われるといやな部分とは、自分にそれがあるからです。
これが感情論になってしまう理由の一つだと思います。だから、「そういう意見もあるのですね」で止めておく、余計な感情が深い考察を邪魔しないようにするためです。
私の意見に対しても、感情的に取らないで下さい。これは私が感情的に取らないためのルールでもあり、読者もそうしてほしいという希望です。
2、分からないことは「分からないです」と書く
コメントに対して、そんなこと言ってないし、理解力がない人だな、では、感情論になり、対話はできません。
「分からない」とは全否定していると感じられるかもしれません。
「分からないなら自分で調べろ」はなしです。このコメントでは対話ができないので、何か意見を下さい。
「ああそういう意見もありますね」では対話するといいながら、対話してないだろと思うかもしれません。
これは私が「対話」の意味を履き違えているかもしれません。その辺りは上手く説明ができません。
コメントをしてくれた人が、「この人は理解力がないのだ」と思うかもしれませんが、これでは前に進めないので、分からないと書いた部分は、よくわからないので、「教えて下さい」という意味が含まれています。
3、コメントする価値があると思ったものだけに厳選しています。
すべてのコメントに返答はできません。ここでは何が正しいとか正しくないすべきであるといった議論をめざしていません。それは個人の自由です。ここでは対話をしたい人であるコメントを書いていただいた人や、私が気づいていない見方や考え方であると判断した場合のみコメントしております。答えてくれなかったといって感情的にならないでください。
前置きが長くなりましたが、コメントに反論せずに、感情論にならず、そういう意見もあるという態度でコメントしていますが、それでも感情的に書いていると感じた場合は、すみません。
ここからは前回の記事を
を読んだ方が理解しやすいと思います。
ブログを止めるのが最も効果的
止めるというのも一つの選択肢としてありますが、ブログを書く楽しさを知ってしまうと止められないというのが正直なところです。
文章を書くことは、誰かに自分の気持ちを分かってほしいという思いがありますよね。それを否定されるとイライラしたり、落ち込んでしまう。
意見はそれぞれ違っていいという共通の気持ちと感情論で書いたり、読まなければ、相手を否定することなく、受け入れられると思っています。
イライラしたり落ち込んだりすることが良くないことだと聞いて、イライラしたり落ち込んだりすることがどうしても止められない自分にイライラして落ち込む。
これはありますよね。イライラする理由は、イライラしない理想の自分と現実とのギャップがあるからです。
人の認識はズレがあるのです。例えば、目をつぶって腕をまっすぐ上げたと思っても、上げていないといった認識のズレと同じようなことが、私という個人の認識に起きています。イライラする自分もいることを認めてあげたら、落ち込むことも少なくなるのではないでしょうか?
また誹謗中傷と批判の区別すらつかない方が...
これは分かりませんにさせてください。誹謗中傷と批判の受け方について、意見に感情が入ると、おかしなことになると言いたかったのです。
「また」ということは他にもよく見るということでしょう。
誹謗中傷と批判はどう違うのか、ぜひともブログで書いて下さい。というか、私の為に書いて下さい。
これはまた次のネタにもなるかもしれません
意見は意見であって反対の考えがあるのは当たり前。心のぶつかりではない。それなのに、人の意見と、その人自体を同一視する人も居るから難しい。
そうですね。ブログの場合、一つの記事でその人全否定する人がいます。感情的に読むと否定されていると感じてしまうことにも注意して下さい。
相手を認めない裏には、自分が絶対的に正しいという偏見があるからだろうと思います。
偏見がある人は見方が狭くなってしまいます。他人は鏡です。自分のことはよく見えない人ほど、他人についてよく見えていますが、見えている部分は自分にもあることだけです。人は善人も悪人もいなくて、両方混ざっている矛盾した生き物だと思います。だからと言って、悪い行為は許されませんが
最近思ったんだけど、炎上する人のブログって周りと意見が違うから叩かれてるわけじゃない気がするんだよね。どっかしらで人を馬鹿にしてたりしてるのが文面から伝わってくるから叩かれてる気がする。
鋭い意見だと思います。たた、バカにされたと思うことは、感情論になりやすいという特徴があります。
人の文章を読んで、バカにしていると思うのは、感情で読んでいる証拠です。また、バカにされることをよほど恐れているからともいえます。
書いてある人は意図しないで、相手をイライラさせるのは、書く側と読む側の認識の差かもしれません。
ブログを読むとき、感情論で読んでいないかを意識してみると、意見を素直に受け入れることができ、見方を広げられると思います。
人と考えが違ってもいいはずなんだけど。自分を基準に考えすぎるとおかしなことになる。
そうですね。違うのがいい悪いではなく、「違う」のです。意見とは自分の主観が入ります。それはたんなる個人的意見です。個人的意見に対しては「ああそうですね」という態度しか取れないし、分からない場合は「どういうことですか」と質問して、おかしなところがあれば、でも「それっておかしくないですか?」という態度しか取れません。
そこに反論したり、あなたの意見は間違っていると言い出したりするから偏見になり、感情論になるのです。だから、イライラしたり、落ち込んだりすることは不要だと思うのです。
要は言いっぱなしで他人の意見は聞き入れるなってこと?なら意見交換が激しい文化のはてなでやるのはやめたほうがいいよ。それこそ消耗するだけだから。もっと静かなところでやればいい
これも分かりませんにさせてください。
「他人の意見は聞き入れない」とは書いていないのですが、もし、そう思う箇所があれば、コメント下さい。
私が言いたいことは、逆で、聞き入れるために、感情はいらないということと理解して下さい。
「意見交換が激しいはてなの文化」と書かれていますが、私からすると感情論で一方的に発言しているだけであると認識しています。書きっぱなしなんです。
意見交換しようとしたら、感情論で書き出す。感情論で読む人が多いのです。
これが炎上につながり、ブログをつまらないものにしていると思いませんか?
ブログの楽しさは意見交換にあるのかもしれません。
コメントの機能がここまで利用されるのは意見交換や対話をしたい、自分の意見を聞いてほしいとい欲求があるからでしょう。
しかし、今のブログ文化ではそれはむずかしいことかもしれないし、そもそも対話の文化が少ないので、感情論で書く人と感情論で読んでしまう人が多いからかもしれません
私も以前はそうでしたので、ブログがつまらなく感じるときがありました。
意見を持つことがどういうことなのかを考えていくうちに、ブログの楽しさを見つけると同様に、つまらなくしている原因も一つの発見することができました。
ですから、今回あえてコメントに対話する方法を試してみましたが、いかがでしたでしょうか。
意見を出し合うことは楽しいことだと思いますが、相手が間違っていると、おかしいでは、感情論になり、意見を交換するという状態ではないし、つまらないものになるでしょう。
それでも対話は自分では気がつかないこと気がつかせてくれるものです。馴れ合いでは生まれない、対話でしか生まれないものもあるでしょう。
ブログ文化の歴史、ブログ文化の未来についてなど、ブログ文化も大きなテーマになりますね
これ、根本的な事を言うと親にどう育てられたかに起因してるよ。なので甘やかされて育った奴ほど、そう思うんじゃないかな
これも分かりませんにします。親にどう育てられたかに起因するとは新たな視点です。甘やかされた人はこういう考えを持つということでしょうか?
そのテーマでブログを書いてほしいです。
少し話からズレますが
ある意見を批判、反論することで、出てくる答えは、個人の意見であり、どれも自分にとって都合のいい意見になります。
私が知りたいことは真実だとすると、真実の性質からすると成り立たなくなりかもしれません。
しかし、意見交換をすることは、自分の見方や気づいていない部分を知るには、ブログのコメント機能は便利だと思います。
まとめ
コメントをしても、コメントを返してくれるブログは多くありません。
「いいですね 素晴らしいですね そう思います」
というコメントは嬉しい反面、対話や新しい気づきは少ないのです。感情論でコメントを読むと、そこで新しい気づきの芽はなくなります。
気づきの芽は感情論で潰されます。
今回記事を書いている途中で、私はブログで対話や意見交換がしたかったのだとあらためて感じました。多くはブログを書いた人も、コメントを残す方も一方的に意見を言って終わります。
その終わり方は平行線を辿るか、誰かを傷つけてしまうものになるでしょう。
コメントの機能はコメントが感情論に変わる限り、炎上(炎上とは呼べないものもある)はなくならないし、いまや炎上はPVを稼ぐ一つの方法になっています。
そこはブログをつまらなくさせる要因の一つだと思います。
しかし、コメントの機能は、匿名であるがゆえに、するどい意見もあります。
人間は100%いい人、悪い人は存在しないと思っています。人間は矛盾する存在だと思っています。
するどい意見は、自分の気づいていない部分を指摘するのと同時に、自分の見たくない部分やいやな部分も指摘します。
同時に、私のコメントによって、傷つく人もいるかもしれませんが、ルールに書いた通り、余計な感情は持ってこないでください。
この記事から発展する記事が書ければこれ幸いなことだと思い終了します。
長文失礼しました。
ではでは