意見が違うことに対して、イライラしたり、落ち込んだりすることはおかしいことに気が付きませんか?:批判や誹謗中傷の受け方について
こんにちは 中国に来て体重が増えているパパQです。
ミニマリストの本が売れて、テレビでも、取り上げられ、ミニマリストのブログが注目されると、いろんな意見を持つ方がいることがよくわかります。
炎上のような記事もあったし、話題が尽きないなあと感心しながら、見ています。
炎上やコメントに対する考え方を間違うと、ブログに何を書けばいいのかわからなくなったり、ブログがつまらなくなりますよね
今回はブログを書く上で、炎上や批判や誹謗中傷についてどうかんがえていけばいいのでしょうか
基本的にほっとけばいいのですが、それでは気持ちもおさまらないし、また炎上する記事を書いてしまったり、炎上にみずから参加してしまうことにもなります。
仲間内でほめ合う空気は、そこから何も進歩しません。批判や反論があってこそ、見方がひろくなることもあります。
情報を発信したあとの、相手の意見の受け取り方を学べば、怒りの感情が邪魔せずに、より良い方向へもっていくことができると思います。
多種多様な意見を認めるには、意見を持つということがどういうことなのか考える必要があると思います。
そこで、私が参考にしたのは、
炎上で有名なイケダハヤトさんの書籍に批判について書かれています。
やさしく自由に生きる智慧 ?理性を育てて幸福を目指す? 仏教は宗教ではない 後編
- 作者: アルボムッレスマナサーラ,イケダハヤト
- 出版社/メーカー: Evolving
- 発売日: 2014/04/23
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
Q.自分の意見を述べると、批判や反論をされて、最悪、炎上して、結局、こちらが謝らないと収まりがつきません。なにかいい方法はありませんか?
どんな意見も偏見でできている。
ネットは一人対複数の関係になるので、対話をするのがすごく難しいのです。
「私はこう思う」といっても、「相手はこう思う」ですれ違いが生じます。
最終的には、「おまえは間違っている」で、書いた方は結局、謝らないといけなくなる。
意見をもつことは素晴らしいように思いますが、結局それは偏見です。
意見に対しては、反論や批判をしようと思えば、なんでもできてしまう。
仏教では意見にはごだわりません。
相手の意見に「ああそうですか」
相手の意見がわからなかったら「それはどういうことなんですか?」
「なぜその意見になったのですか?」「理由はあるのですか?」
そして、おかしいところがあれば、「そうは見えませんよ」と言うだけ
反論はしていないのです。
どんな意見にも反論は可能です。反論できない意見は立てられないのです。
ほとんどのブログに書かれていることは意見です。
意見と真理の違いを知れば、意見にこだわる必要がないこと、意見に対して反論してもキリがないこと、ずっと平行線をたどることでしょう。
ああそいう意見もあるんだな
そこで終わればいいのです。
なぜか、そこに感情が入り、「その意見は間違っている」と思うと、批判、反論がしたくなります。
それはおかしいだろ、あなたの意見は間違っているという意見を持つことなると、この地点で感情論になってしまうのです。
意見の特徴は、みんなばらばらで正解が一つではない状態です。
間違っているのではなく、その気持ちが分からないのでいいです。
分からないから、なぜそう思うのですか?という問いが生まれるのです。
おかしなところがあれば、「そうは見えないですけど」
相手に理由を聞けばいいのです。
そこには感情はいらないんです。
個人の意見は偏見でできている
個人の意見はどれも偏見だということ覚えておいてください。どんな意見も調べるとどこかおかしなところが出てくるんです。
個人の意見には時代や性別や文化によって、さまざまで、正解は一つではありません。反論しようと思えばできるのです。
だから、価値はないと思った方がいい。
意見というのはばらばらなんです。それが特徴であって、そこに対してイライラしたり、怒りという感情をもってくるのは、お門違いなんです。
逆に、どんな人でも同じ結果がでるのであれば、それは意見ではなく、真理になります。
意見について考えることはいつまでも反論ができるので、キリがないので、時間の無駄になります。
意見を持つより、真理について知った方がよっぽどいいでしょう。
真理は時に残酷ですが、真理であれば、反論はできません。
地球が丸いことは真理であって、意見じゃないですよね。
真理だけは、みんな同じ結論になります。
意見はいつもどこかで間違っています。
智慧をつけるなら、真理について、考えたほうがいいです。
ここまでのまとめ
- 意見は意見で、そういう考え捉え方もあり、同じ意見になる必要はない
- そこはおかしいとか、間違っているのではなく、「その気持ちが分からない」で止めましょう。反論してもキリがないのです。
- 意見が間違っているのは当たり前です。それに対して、感情をくっつけると、怒りに変換されます。最悪、炎上になってしまい、お互い平行線をたどり、成長することはありません。
- 意見は同じ答えになることはありません。みんなバラバラであることが意見の大きな特徴です。
- 意見に対して、怒りの感情のウラには、自分の意見が正しいという思いがあります。しかし、意見が正しいということは、ありえません。それは間違っているのではなく、答えが一つではないということです、逆に言えば、どれも正解です。どれも正解ということは、どれでもいいのです。つまり、どうでもいいのです。
Q、誹謗中傷に対する対応策はありませんか?
A。誹謗中傷を褒めてしまう
イライラしたり、腹が立つ理由は、自分のへの執着です。
他人のこととなると、冷静でいられるのに、
自分のこととなると、感情的になってしまいます。
他人への誹謗中傷は、すべて鏡のようになっています。
なにが写っているかというと、その人の精神状態です。
同じものを見ても、人それぞれ感じるものは、違いますよね。
では、何が違うのか?
それはこころの状態です。別の言葉で言えば、精神状態です。
相手の意見にたいして、「ああそいう見方もあるんだ」で止まればいいのですが、
その意見に対して、ついつい反論したくなる。
これは一種の欲です。
それより、なぜ、そんなに、イライラしたのだろう?と自分の状態を分析してみてください。
もしシネとかバカとか書いている人がいたら、まともな精神状態ではないということ、本当はそれは書いた本人の心の状態と気がつかないといけない。
書かれた人は書いた人と同じように、イライラしたり、傷ついたりする必要はないんです。
誹謗中傷の場合、書いた人の精神状態はおかしいのです。
それに一緒になる必要はありません。逆に大丈夫でしょうか?と心配してあげたほうがいいでしょう。
もちろん、個人的に傷つけるようなことを書いたなら、よくないですが、何かを書いて、批判が来ても、それは、相手が感じたことなので、書いた人はそれについて、落ち込んだり、いちいち反応しなくていいです。
「そういう意見もありますよね」で終わりです。
インターネットでは、匿名性によって、実際に会えば、言わないことも、平気で書く人がいます。それは本音なんですね。本音は素直な意見なので、そういう意見もあるのかぐらいで止めておけばいいです。
ということは、これも一つの意見です。ああそういう意見もあるんだ、で終わりです。そこに反論したり、イライラしなくてもいいです。
では では
続きの記事を書いています。