ブログは対話に向いている。対話の意味とやり方を学べばブログがもっと意味のあるものになる。
ブログの対話について書いていたら、対話の重要性と面白さを実感してきたパパQです。
対話の定義とは何でしょうか?感情論になった対話ではブログを楽しめないというのがすべてになりうるのか
「対話」とはいったいなんでしょうか?(記事の最後に対話とはについて書いています。)
私も「対話」という言葉を使っていながら、よくわかっていない部分もあることに気がつきました。
また、「会話」と「討論」と「議論」と「対話」ほかにもあると思いますが、何が違うのでしょうか?これはまた後で書きたいと思います。
感情論になってしまうと、すべてが楽しめないのか?ということですが、
すべてというと、すべてではないですよね。
感情論であっても、楽しめる人はいる。
私はここで対話がしたいのです。それが正しいとかそうではないといった議論ではないということです。
対話と書いた理由は意味の共有化です。そして、ある事柄の意味をより深く知りたいからなんです。
ブログやコメント機能は匿名性があるので、素直に発言する環境は整っていると思います。
(対話をする上でこれは絶対必要なんです。例えるならラーメン屋に行ったのに、ラーメンがないぐらいありえないのです。)
ですが、ブログで行われているのは、感情論による、意見の一方的に主張であり、最悪炎上です。
炎上しながら対話しているという記事を読んだことがありません。もちろん、私が読んだことがないだけかもしれませんが、
意見からスタートして、次に議論や対話や討論という形になっていきます。途中から感情的で偏見的な意見の言い合いになり、最終的に、炎上になります。
炎上になれば、そこはお互いにの正しい答えも、深い洞察や気づきもなにも無くなってしまいます。
しかし、炎上になる前は、対話ができるのです。それがあるポイントで炎上記事になり、意味の共有化や深く物事を知ることができなくなると考えています
そのポイントが前々回の記事の意見を感情論で書いたり、読んだりすることだと思うからです。
意見に対して感情的になってはいけないということではないです。そこにいい悪いはないと思います。
返答になりましたでしょうか?
では、次にいきます。
基本的には発信者の意見に賛成できる人が対話をすべき。発信者に傾斜できなければ意見の対立は必至。まあ、議論をするのが好きなら…ですが…
「賛成できる人同士でないと、対話が成り立たない」
なるほど、確かにそうかもしれません。
ただし、賛成ということは、正しいか間違っているという意見の上で成り立ちますが、対話は賛成も反対もない状態でも成り立つと思います。なぜなら、そもそもそれはどういうことなのかといった前提としている事を話し合う事もできるからです。
対話をすべきだとは思いませんが、対話をしたいけどできない、議論をしたいけどできない現状があり、その大きな理由として感情論が入ってくるのではないかという事です。
記事後半から対話について深い言及がしてあるサイトがありますので、読んでほしいのですが、ここに対話をする上で気をつけること、これを無視すると成り立たないかもしれないことが書かれています。
- 互いに対等の存在であることを認める。
- 相手に対してつねに好奇心を持つように努める。
- 良い聞き手になるためには、互いに助け合うことが必要であると理解する。
- 急がずに、考えたり振り返ったりする時間をとる。
- 語り合うことは人間がともに考えるための自然な道であることを思い出す。
- ときには混乱も覚悟しておく。
出典: 『もしも、あなたの言葉が世界を動かすとしたら』 マーガレット・ウィートリー 著
3番を補足すると、相手の書いてある真意を理解すること。タイトルだけ読んでコメントする人もいます。感情論では結局、相手が嫌いなのでは?というコメントもあります
このルールは対面して話しあうという条件で書かれていますので、ネットを使った対話ではありませんが、ほぼ同意します。
私なら、ここに「感情的に意見を書いたり、読んだりしないようにする」という項目を付け足したいぐらいです。
もちろん、すべてのコメントを残す人が対話を望んではいません。ゆえに、感情的にコメントを書く人がいます。それを読んでまた感情的になり、イライラしたり、落ち込む人がいる。
ブログほど対話に向いている環境はないと思うし、対話ができるようになると、より深い言及ができ、楽しいと思います。
議論をするのが好きかどうかですが、
議論より対話がしたい気持ちが強いです。
ああこの記事は議論をしたくない人が議論にまきこまれてるとか、この人は本当は対話がしたい人だなって思うときはあります。
これは私からの問いですが、炎上記事についてはどう思いますか?
ブログの歴史を見てみると、炎上記事が毎週のように生まれる今の状況ってこれからどうなるのか、ブログを書いている側からするとめちゃくちゃ気になります。まだまだ増えていくのか?日本の経済状況と関係がないのか?多くの人が惹きつけられる理由も知りたいです。
まとめに入ります
コメント機能により、意見交換が簡単にできるようになったことで、ブログの楽しみ方が一気に拡がったと思います。発信者と受信者の隔たりがなくなった。
毎日どこかで炎上記事が生まれるのは、コメント機能やSNSが普及したのも一つの原因だと考えます。
そして、なぜ普及したのかと考えると、人は知りたいという欲求が強い生き物であること、意見を言いたい人がたくさんいるからです。
対話ってなに?から始まり
なぜ議論ではなく、対話と書いたのか?
なぜ対話をしたいのか?なぜ対話にこだわるのか?
ここも大事で、コメントを残す人が議論をしたいのか、対話をしたいのか、はっきりしていないということもあると思うのです。
勝手な推測ですが、これが正しいとか間違っていると行った議論ではなく、お互いに意味を共有して、もっと深く知るという対話をしたい人が多いと思っています。それがうまくできていないのは対話の文化が育っていないことにも理由があると思います。
同時に、それを邪魔するのが、感情的にあなたの意見は間違っているとコメントを残すことと感情的に読む思考です。(対話や議論を望んでいない人もいますよね、それはそれでいいと思います。)
わたしも多少意見を書くことがあります。なぜ意見を書くのかというと、そこで議論したいからではなく、対話がしたいのだと今回記事を書いていて思いました。
余談ですが、
対話や議論の意見を書くときは、前提としているものを一回問わないと話が噛み合わないということがあります。
今はてなでもよく出てくるミニマリストの定義で、「定義はある」とか、「定義は人それぞれある」と言うことを書いている人がいます。
私は定義は一つだと思います。
認識の差は、言葉の定義が同じではないからです。
(ミニマリストの定義に関しては、以前ブログに書いてありますので、ここでは省略します。)
そこは議論ではなく、対話でミニマリストの定義を考えてほしいのです。
定義は人それぞれ違っていいというのは、議論よりも対話をしたい人の意見だと思います。
定義があってもなくてもどうでもいいというのは、一つの答えを出したくないということです。
それも一つの答えになるという矛盾は置いておいて
議論をしたくなく、対話がしたいのだと思います。
もっと深く意味をしりたいという欲求があるように感じます。
しかし、ほとんどが対話したいのに、議論になっている。議論でもいいと思います。しかし、対話でも議論でも、感情論で意見を書いたり、読んだりすると正しく見えなくする原因だとと思います。
そもそも対話などしていないというツッコミあると思います。
ただ、意見を書く以上は、お互いに意味を共有化して、深く知りたいという気持ちがあると思うですよ。
それが対話になるんです。
対話をすることによって、お互いの意味を理解して、より深い意味を知ることができると思っています。
それは、私が真理を知りたいという欲求、カッコよく書くと、知の探求が強いからだと思います。
おそらく、わからないものを知りたいというのは、人間のDNAに刻まれているのではないかと勝手に想像してしまいます。
感情的であれば、あなたの意見は間違っているという勝ち負けになってしまいます。それは意見という偏見を押し付けて、平行線を辿るだけで、お互いにとって意味のない時間の共有になってしまうと感じています。
ブログ文化が良い方向に向くことを願いここで一旦終わりたいと思います。
何か意見があれば、コメント受け付けております。
おまけ:対話とはなんでしょうか?
ここから、対話について、よくわからなかったので、調べてみました。
分からないというときは、英語ではなんというか、似たような言葉の違いを知るとより理解が深まると思います。
今回そのいい例として
「対話について」言及している
ワールドカフェというサイトがあります。
わたしたちの中での「対話」とは? - ワールド・カフェ・ネット
その中に、私たちにの中での「対話」とは?
非常に深い言及がされています。
気になる部分を抜き出します
人々の間を通って流れている「意味の流れ」という映像やイメージが生まれてくる。これは、グループ全体に一種の意味の流れが生じ、そこから何か新たな理解が現れてくる可能性を伝えている。
新たな理解は現れてくるのを見えなくするのが感情論なんです。
対話とは意味の共有化することによって、あらたな理解ができる、また、理解が深まるということ
対話では勝利を得ようとするものはいない。もし、誰かが勝てば、誰もが勝つことになる。
討論と対話の違いでしょうか。偏見のかたまりである個人的意見で、相手の意見に勝利しても、それは対話にはなりません。
対話での勝利とはお互いに言葉の意味の理解が深まること
対話の勝利はwinwinの関係です。
1 互いに対等の存在であることを認める。
2 相手に対してつねに好奇心を持つように努める。
3 良い聞き手になるためには、互いに助け合うことが必要であると理解する。
4 急がずに、考えたり振り返ったりする時間をとる。
5 語り合うことは人間がともに考えるための自然な道であることを思い出す。
6 ときには混乱も覚悟しておく。
出典: 『もしも、あなたの言葉が世界を動かすとしたら』 マーガレット・ウィートリー 著
対話をする上で気をつけた方がいいというポイントが書かれています。
感情論で書いたり、読んだりしてはいけないとは書いていませんが、まったく関係がないとは言い切れないと思います。最後のときには混乱も覚悟しておくはなかなか深いです。
自分の話していることや他者が話していることを聴くだけでなく、全体で何が話されているかに耳を傾ける。 一人ひとりの意見ではなくシステム全体で何が浮かび上がってきているのかを聴く。心の底から聴くこと。心で話すこと。
出典: 『手ごわい問題は、対話で解決する』 アダム・カヘン著
感情論で書いていると、全体では何を話し合っているのか見えなくするものだと思います。
勝ち負けの生じない合意やアイデアを生み出すための会話 」
「心を一つにして行動することのできる状態を作り出すための会話 」
出典:『決めない会議』香取一昭、大川恒著
「対立や選択による痛みを通過して生まれる対話の場には、ほんとうのやさしさがある。」
出典:『ニッポンには対話がない』北川達夫、平田オリザ著
「いいです 素晴らしいですね」といった優しさではないところから生まれる深い意味の理解ができることが対話の面白いところです。
議論と対話の違い
「いくつかの選択肢があったうちのどれが正しいか、論を戦わせ、どちらかを捨てて、どちらかをとる」ということが「議論の」典型的なかたちであり、それを効率化したものが「いい議論」ということです。
「対話」というのは、それとはまったく異なるプロセスです。勝ち負けを決めるディベートでもなければ、互いに最大の利益を追求する取引でもない。むしろ、前提となっている選択肢の可能性をもう一度探るとか、評価の基準そのものを再吟味するといった方向に話し合いを進めていきます。結論を出したり、意思決定を下したりすることが目的ではないので、「対話」が「議論」に置き換え可能というわけではなく、両社は補完関係にあります。
深い考察です。
対話は一つの答えを出すためのものではない。
議論と対話の違いをあげながら、お互いに相互関係になっているというのも忘れてはいけない
さとなお.comでも対話で検索するとでてきました。
www.さとなお.com(さなメモ): 「対話」と「会話」と「討論」の違いについて
最後の部分がぐっときました。
でも、ボク個人としてはフェイスブックやツイッターでいろいろな方と「対話」ができ、思考が深まって楽しかったっす。肌感覚として、ネット上でも、以前よりは、勝ち負けを決める「討論」が減り、第三論を導き出す「対話」が増えてきた気がします。
第三論を導くのが対話の目標の一つかもしれせん。
ツイッターの方が、対話向きかもしれません。問題としては文字制限があるので、ブログのように意見をまとめることができないということも言えます。両方使えばいいのかもしれません。
対話をうまくできることが、未来のブログ文化がどうなるのかというカギにもなると思います。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
何か思うことあれば、コメントお待ちしております。
3日連続更新でまとめるのは大変でしたが、楽しかったです。
ではでは
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