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無常と苦と無我はセットで一つである。

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photo by alterna ►

 

こんにちは パパQです。

 

前回の記事の最後の文章

無常とか無我ってどういう意味なんでしょう?

矛盾するような、しないような

今回再度、無常と苦と無我について考察してみました。

矛盾していなかったことがわかってより深く理解できました。

ということで、

今回は無常、苦、無我

について興味ある人はご覧ください。

とっても長いので、ゆっくり考えながら、そして、頭を柔らかくして読んでください。

無常と苦と無我はセットで一つである

無常、苦、無我

3つありますが、

実は、1つのことを3つの視点から説明しています。

 

つまり、これってぜんぶ同じことを言っています。

 

順番も大事です。

わかりやすい順番にならんでいます。

無常はいちばん理解しやすいですよね

 

ものごとはつねに変化して、同じものはないということです。

 子供でもわかると思います。

 

無常とは因縁論の考え

では、こんな説明になるとどうでしょうか?

  • 無い状態が有る為には、その前に、有る状態でないといけない
  • 有る状態で有る為には、その前に、無い状態でないといけない

これを一言で説明したのが

「無常」です。

 

常にあるためには、無であり有でなければならない

なにが言いたいかといいますと、

無も有も単体では存在できない

お互いが存在するためには、有も無も必要です。

常に依存しているのです。

これが因縁論です。

 

無常とは因縁論です。

因縁論とは簡単に言うと、結果には原因があるということ

すべては縁であるということです。

 

ここまでは初級です。

3つのポイントを踏まえた上で

次の苦に行きます。

生きることは苦である

ここから急激に難しくなりますので、ついてきてください。

無常と苦が矛盾せずに、つながっているんだということを理解できたらいいと思います。

 

「苦」は分かりやすい部分と分かりにくい部分があります。

 

まず、分かりやすい部分から説明します。

 

よくある苦はだれでも経験しています。

人生楽あれば苦あり

この苦しいの苦です。

だれでも理解しますよね。

 

しかし、同時に、楽もあるじゃん

と理解すると、そこから先にはすすめません。

 

頭を柔らかくして、考えてください。

苦の反対は楽?

苦しことが多いので、楽はずっと続いてほしい、だけど、現実は苦しいことだらけです。

お金は使えば減るし

命は限りがあります。

人間関係で悩むこともあると思います。

ここまでは子供でもわかるはずでです。

 

では、もう少し踏み込んで書いていきます。

苦と楽について

苦を理解する上で、大事なポイントがあって

 

前提としてすべてを生命として観ると発見するのが、苦です。

 

つまり、人だけでなく、目の前のパソコンにも苦があるのです。

苦をどう捉えるのか?

人間には寿命があります。

パソコンも変化するでしょ

動かなくるし、もっと時間が経てば、跡形もなく消えます。

なぜかというと時間は止まらないからです。

時間もすべて無常です。

これは人もパソコンも同じだと理解できますよね。

これを苦にも応用してください。

3つのことを理解してなおかつ、ぜんぶ同じことであることが矛盾しなくなれば理解できているはずです。

 

もう一度、苦の反対の楽について考えてみます。

 

一般的に苦の反対は楽について

苦しいから楽になりたいと思う。そして、ずっと楽であればいいという欲望が生まれる。

ここで無常を思い出して、苦を説明してみると

  • 苦しいから変化することはあっても、楽だから変化しようとはならないのです。

楽だから変化しようと言うこともできますが、無意識の部分は説明できますか?

呼吸さえ苦しいから吸うし

吸い続けると苦しいでしょう

 人間の感覚はとてもシンプルで

  • 苦でない
  • どちらでもない

この3つしかないのです。

だから、楽はなく、苦しかない

 

「楽」も「自分」もどこかにあると思うのが、勘違いなんです。

考えれば「苦しかない」ことに気がつくのです。

楽は真理ならず、苦が真理になった理由

「楽」であることは真理にならなくて、「苦」が真理だと説いている理由は無常であることを説明する上で必要になるからです。

 

無常を理解するうえで、常に変化しないといけない

そのときに「苦」がでてくるのです。

 

無常と苦ですべての現象は説明できるのです。

それと同じことが無我の「我」にも言えます。

 

自分があるのではなく、「苦」があるんです。

自分が有る為には、「苦」が絶対に必要なんです。

苦がない状態を証明してください

苦しくないと言っても消えたわけではなく、表面上に出ていないだけで、ちゃんとあります。

 では、楽はどうでしょうか?

 ここで楽も表面上に出ていないだけで、どこかにあると思う人がいますが、

 楽の存在は苦が有るからです。

 

これは予想ですが、

もし苦と楽どちらかはじまりかといえば、

苦がスタートだと思います。

 

一般的な楽があるのも苦があるからです。

だけど、

楽あるから苦が生まれたのではありません。

 

楽を苦の反対と思ってしまいますが、始まりは苦からスタートしています。

そして

すべてが無常である

例外はありません。

 人間であれば、寿命あるし

パソコンも使っていると壊れます。

 これを一言で「生きることは苦である」と説いたのです。

 では、

苦しいけど、変化しないで我慢している。

変化していないのではないか?

 

時間は変化しているという点を置いておいても、じっとしていると苦しいでしょう。

 

楽がずっと続いた方がいいと考えるのは無知なんです。

楽があると思うことも無知です。

同様に自分があるというのも無知です。

 

楽があったわけではなく、苦だけがあった

楽はなく、苦しかない

そして、無常である

変化する理由は苦るしいから

ここまでよろしいでしょうか?

無我といっても自分はあるよね?

では次の「無我」です。

「無我」を理解するまえに、無常と苦を理解して矛盾がない状態で挑んでください。

無我とは我が無い

我が無いと言えるには、我があるからです。

いきなり矛盾しますよね

ここで、無常を思い出してください。

無常ですから、生まれては滅して、また生まれているわけです。

止まっている状態はありません。

速度も時間もあるのですが、時間より早いか遅いとなると

止まっている状態になります。

あるんだけど、それをないとも言えるのです。

 

無常にも認知できる範囲があって、時間の概念を越えると、無常でありながら、無常でないように見えるです。

現実に置き換えると、人は変化のスピードが速すぎても、遅すぎても認知できない。

一秒前と一秒後は速すぎて、無くなって、生まれていることに気がつかないし、

これを逆に言うと、遅すぎると考えることもできます。

変化が遅すぎて、変化していることが認知できない。

 

早いと遅いは別のベクトルを向いているけど、

同じ現象とも言える。

 

これが無我を理解するうえで、大事なポイントだと思います。

無我を理解して説明することは本当に難しいです。

 

ここでちょっと違う視点で書いてみます。

なぜ魂という言葉を考え出したのか

生きることはなんだろうと考えた結果、一つの言葉が考えられました。

生きていたい、死にたくない、命だけは永遠であってほしい

身体は壊れても、壊れることのない永遠の魂があってほしい

だから「魂がある」ということによって、人は安心して、気分が落ち付きました。

 

これがすべてに魂があるという唯物論です。

 

しかし、永遠の魂があることは、無常と無我と矛盾します。

 

そして、だれにでも魂があるとなると、善いことをした人にも悪いことをした人にも平等になってしまう。

インドではカースト制度がありましたので、平等であってはおかしいのです。だから、区別するために、幸せになる魂と不幸になる魂と差をつけました。

そして、すべての魂を作っている存在を作り出して、最終的な審判をゆだねるようになったのです。

 

でも、魂がある証拠はどこにもありません。

なぜか魂の存在は説明できないけど、

わたしたちには感情もあるし、思考もあるし

体は変化するし、気持ちも変化する、考えも変化する

ことは証明できる、

 

魂があるとしたおかげで、執着も差別も戦争も生まれました。

魂あると信じることによって、生きていたい、死にたくない、快楽に溺れたい、という妄想を抱くようになった。

無我の無とは「ある」に対しての「ない」ではないのです。

仏教では因縁論をものとに、無我を考えています。

無常である魂はあるのですが、それは変化している魂なので、

それを同じであるというべきが、違うというべきか

無常を現実に持ってくると、人間は一秒前と一秒後は変化しているのです。

では違う人間になったのか?

 

同じであるなら、無常ではない、

だから、同じではない、無常の魂がある

同じ魂はないけど、変わっても変わらない魂がある

 

それを神となずけているのがキリスト教ではないかと思います。

 

魂を自分と置き換えてもらってもいいです。

ここで無我から離れて因縁論について、考えていきます。

科学が発展したのは因縁のおかげ

仏教ではすべてを因縁論で説明できると言われています

すべてとはすべての生命です。

人間の価値観や基準だけで物事を見ていると理解できないことになるはずです。

 

科学が進歩しているのも、因縁を発見しているからです。

物理の法則も因縁の法則です。

だから、仏教は科学に近いと言われるのです。

科学の壁

科学の壁は、物資ではないものの因縁を発見することです。

つまり、命です。

命とはなんなのか調べる方法を見つけられません。

 

科学技術で宇宙にまで行けるようになったにもかかわらず、こころやいのちの因縁については知ろうとする努力は少ないのです。

結果的に、どんなに快適で便利になった社会でも、悩みや苦しみはなくならないのが現状です。

 悩みや苦しみは物質が問題ではなく、こころが問題だよと25000年前からお釈迦様は教えてくれているんです。

すべてはこころが決めている

物事はつねにニュートラルです。

うれしいのか、かなしいのか、判断するのは「こころ」です

お年玉をもらった子供が

一万円しかもらえなかった

一万円ももらえた

この差を作り出しているのは

一万円ではなく、「こころ」です。

 

一万円を二万円にすれば、問題が解決するかといえば、

また来年には、同じことを思うはずです。

欲望や執着を作っているのは「こころ」です。

物質をいじっても、欲望や執着は変わりません。

変えらるのは「こころ」です。

 

今だに物質だけを信じて疑わない人が多く存在します。

経済がまわっているのも、科学発展してるのも、

因縁を発見しているからなのですが、

それが万能だと思って、物質が豊かになれば、こころの問題も解決すると思い込んでしまうのです。

幸福は物質ではないということに気がつくには、いのちの因縁について理解しないと無理でしょう。

 

いのちの因縁を理解する上で、

苦がポイントになります。

すべては苦からはじまります。

 

だから、お釈迦様はこれをシンプルに

「生きることは苦です」

と説いたのです。

無常も苦も無我もない世界があるなら?

もし、苦がなければ、どうなるか考えてみましょう。

もし、無常でなく、変化しないとどうなりますか?

 

おそらく一番近い言葉は「死」です。

「死」さえも、無常と苦がないと存在さえできません。

無の方が近いかもしれません。

 

上の二つはバラバラで起きることはありません。

必ず同時に起きます。

もともと一つのことを別の視点で説明しているからです。

 

上の二つが同時に起こったら、どうなると思いますか?

甘いものを食べて、無常だとしたら、変化しないわけですから、

甘いという感覚しかないわけです。

正しくは、そもそも甘いという感覚さえもありません。

甘いということがわからないからです。

 

こんな状態はありえなのですが、

甘いと感じることは、変化しているからです。

 

変化しない状態はない、つまり無常と説いているのです。

 

では、なにを感じて変化しているかというと、

それが「苦」です

苦しいと思うから、変化しているのです。

ずっと楽であったら、人間は変化しません。

 

もし無常でなければ、楽も苦もなにもないのです。

つまり、止まってる、時間も空間もない

無常であるから楽も苦もあるのです。

すべての生命が成り立っているのです。

 

生きるということは、変化の連続です。

つまり、因縁ということです。

おわりに

長くなりましたね。

ここまで読んでいただいてありがとうございます。

無常と苦までは短く説明できたのですが、無我を説明しながら、他と矛盾しないように説明するのが難しいです。

考えれば考えるほど、無常と苦と無我の組み合わせは完璧な論理になっています。

矛盾だらけだと思っていたら、矛盾がまったくない

まさに真理でした。

今後は「今」「ここ」「捨てる」に関連したことで書いていこうと思います。

では、では