賢くミニマリストになろう

地震予知はムダ。人生において安全なる場所はあるのか?

4月に熊本震災が起きてから、ゴシップネタやワイドショーネタは一段落ついて、次ははてな人気ブロガー同士の戦いが開始されている。そちらも気になるが、そちらは置いといて、この記事に注目した。

gendai.ismedia.jp

安全という文字があれば、安心できると思っているが、絶対安全な場所や状態はありえないのだろう。事故のニュースをみると、こんなところで事故を起こすはずがないというところに限って、事故が起きるし、犯罪者がみな犯罪者づらをしていれば、だれもが警戒するが、外見でしか判断する能力がない人は美人やカッコいい、優しい、真面目な人には簡単に騙される。犯人が捕まった時には、まさかあの人がやったなんて信じられない、身内ならうちの子に限ってといった状態になりやすい。

自分の生死に関わることになると、自分に限ってそんなことは起こらないという思考になりやすい。人は生きることについて考えることは、得意なのだと感じる。夢や希望を持つ、何かを手に入れる、好きなことやりたいこをやるなど、とにかく楽しければいいなど、生きることは欲とつながっているからだろう。おそらく、自分の死については誰も考えたくなく、自分の死について考えるときは自分が病気になり余命宣告を受けた時か、突然の事件や事故に巻き込まれたときぐらいかもしれない。

人は誰もが生まれて死ぬと頭で理解しているが、突然の死に対してどう考えていいか分からず混乱するのは、人生とは生きることが目的であり、生きることに必死なあまり死について考える時間もなし、考えたくないからあれこれ人生計画を立ててしまうからだろう。しかし、死とはそんなことを無視して当然やってくる。だから、余計に混乱する。結局自分の人生と思っていたのはただの勘違いだということ、人生とは思い通りにいかないものだと実感するのだろう。実感してもなお、死にフタをしようとするかもしれない。死を認めようとしないかもしれない。人の本性は死に近づいている時にあらわれるのではないかと感じる。

私の死生観は無常という言葉で大きく変わった。生命は常に生まれて死んでいると考えている。すべての生命は瞬間瞬間に生まれては死んでいる状態であり、絶えず変化し続けている状態であるがゆえに、気がつくことができないのではないだろうか。赤ん坊の頃と老人になった自分がいれば、変化は一目瞭然であるが、それは認識できる変化だから納得できるが、生きる死ぬという変化が分からないので納得できない。認識できないことは存在していないかのように錯覚するのが人間の認識能力の限界なのだと感じている。

では、変化しているのに、自分という存在はなぜ存在し続けているのだろうか。この「自分」とか「私」という言葉はまるで実際あるかのような錯覚になりやすいが、実際はあるのは変化する身体だけであり、私の体、私の気持ち、私の考え、私の生き方、などなど無数にある「私」だが、その「私」はどこにもない。「自分」とか「私」という言葉は、変化の流れを大雑把にまとめて「私」というラベルを貼っているだけと理解したほうが正しいと考えている。

この考えは「自分」という言葉では分かりにくにかもしれないが、たとえば、ボールペンは複数のパーツから成り立っており、インクやプラスチックといった各パーツををバラバラにしてしまえば、それはボールペンではなく、また別の名前が付けらている。ボールペンと呼ばれるには正しく組み立てられている必要がある。つまり、複数の機能の流れをまとめてラベルを付けているだけといえないだろうか。「自分」「私」というモノがあるのではなく、複数の機能の流れをまとめてラベルを付けている言葉なので、どこを探しても見つからないが、それを実在するという誤解が矛盾と苦しみの生き方に結びついているのではないだろうか。

私の中で「死」という謎多き言葉は魅力的な言葉として存在している。