こころが汚れていると、正しく見ることができない
(中国東北にある瀋陽の街の交差点 気温は15度ぐらい)
こんにちは パパQです。
コメントを書いてくれた方がいらっしゃいました。
生きる事が苦しい一人です。 渇愛も1つの要因かなと調べていた所。パパQさんの記事を目にしました。
生きることについて考えるなら、ぜひ一度、仏教の本をおすすめします。
私の場合は20代の頃に、今以上に生き方について悩むことがありましたので、心理学や哲学書を図書館で見つけては読んでおりましたが、一向に良い方向へいった感じはありませんでした。
私が仏教に興味が出たのは、断捨離やミニマリズムという考えを知ってからではないかと思います。
断捨離について調べていくと、もともとインドのヨガにおける考えであり、3つの漢字をバラバラにすると仏教用語にも出てきます。
仏教においても、「煩悩を断ずる」、「ものを喜捨(布施)する」、「執着を離れる」などと言われて、重要な語である。中でも「捨」という語は仏教において大切なあり方の一つである。(省略)
仏教では、この「捨」という心のあり方はすべての善の心に見出されるもので、ことがらに関わる際の大切な要素と考えられている。
「捨」という言葉に注目していますが、「心」という漢字もとても大事だと感じます。
こころとは何でしょうか?
と、いきなりこんなどう答えて良いのか分からない質問はやめて、別の問い方にしてみます。
言葉の概念を理解する場合は、似たような言葉や似たような使われ方をしている言葉と比べてみると違いがわかってくることがあります。
そこで思いついたのは「からだ」です。
こころとからだ
仏教の智慧を借りて考えてみましょう。
「こころ」という実体が何かあるのではなく、私たちが「生きている」という実感を「からだ」という物体を介在させて理解する働きそのものが、「こころ」であると覚えておきましょう。仏教では、「認識すること(働き)は心である」としていますが、認識といっても、明確な知識という意味ではなく、感知すること、感じること、意識的にしろ無意識的にしろ感覚いっさいはこころの働きであるということです。物体と生命体を区別できる働きすべてが「こころ」です。
物体と生命体の大きな差は「こころ」の認識する働きがあるかどうかの違いということ。もっと言うと、生きているすべての行動は心によって生まれるものです。
だから、こころが乱れているときに、何かを判断しようとしても、正しい判断はできません。
心はコントロールしなければいけません
なぜなら、心は弱いからです。
なぜ弱いかというと、すぐに感情に支配されてしまうからです。または、こころはすぐに汚れます。
おそらく、これは脳の発達にも関係しているのではないでしょうか。
まずはじめに育つのは原始的な脳であり、感情に支配されています。
この部分では、恐怖を感じる脳と言われており、危険から身を守るために発達すると言われています。
そして、理性的に判断できる脳は最後に育つと言われています。
それだけ原始的な感情の脳の部分は強いということです。
好き嫌いといった感情で物事を判断するのは理性的ではありません。
なぜ好きか嫌いかと言われて出てくる言葉は、すべて後付けの言い訳です。
感情で判断することは、同じところをぐるぐる回っているのです。だから、進歩することはありません。
仏教の視点から見ると、人間は進歩していないといえます。
感情がじゃまになって正しく物事をみることができないのです。
では、何が正しいことなのかどうやってわかるのでしょうか?
正しい行いは間違いやすい
たとえば、人は正しいと思った事でも、ある人には迷惑であることもありますよね。
このことから気づく事は、正しい行いが善であるとするなら、善いとされる行いは間違いやすいということです。
逆に、悪い行為は認識しやすいとも言えます。
それをお釈迦様の智慧を借りるなら、
「悪は貪・瞋・痴、善は不貪・不瞋・不痴だよ」
悪という行為を理解させて、それを否定系の形で説明しているんです。
同時に、人間は本来、悪(貪瞋痴)しか知らないからと説いています。
善いことをしようと思っても、名誉欲や、慢心や、競争心などが隠れているのです。それは心が汚れているからです。
善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばるということです。
自分が生きている上で、欲が出てくる、怒りが出てくる。それと戦ってみなさい、ということなんです。
面白いのは「怒る」ということにエネルギーがあるなら、「怒らない」ということにもエネルギーがあります。
「怒らない」エネルギーで生きると、「怒る」エネルギーで生きるより、すごく元気で明るくなるということは言えます。その精神的な強さが善徳なんです。
善を知らないということを知るというのは一つの智慧だと思います。
なぜ善は知らないと言えるかというと、こころが汚れているから、悪しか理解できないと思った方が良いのです。