ミニマリストは手段であり、ゴールは別のところにある

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古い外観の建物も多く残っている中国の東北地方

こんにちは パパQです。

日本は3連休ですね。みなさんはどんな休日を過ごしているのでしょうか?

ミニマリストの記事で気になったのは

www.meguminimal.com

メグさんの行動力にはいつも驚かされます。写真も公開していて、結構本格的なブログの勉強会だったようです。北海道新聞も是非ブログにしてください。

 「ブログは何のために書いているの?」

この問いだと答えが出にくい人は、ちょっと変えて、「読者にどのようになってほしいのか?」で考えてみてはどうでしょうか?

人は必ず誰かに影響を受けているし、同時に、影響を与える存在だと思っています。影響を与えるなら「いい影響」を与えたいという希望があります。そのためには自分のためであり、他人のためであること、その中間がベストバランスだと思っています。

その辺は過去に記事にしているので、気になる方は読んでみてください。

mnml.hateblo.jp

読者にはミニマリストを通して、何かを考えるヒントになればいいと思っています。ブログであるからには、記事に対しての意見から、また私もなにか新しい発見ができればベストだと思っています。理想としては、自分が好きなことを書いて、読者も増え、それが売り上げになる。これだと大抵は挫折すると思います。まず、スタートは自分のため、結果的にそれが相手のためになるテーマでブログを始めることが、ブログを成功させるのではないかと思っています。

ものごとは信じるだけでなく、まずほんとうにそうなのか一度試してみる、その上で、取り入れられることだけ取り入れ、無理だなと思ったら、さっさと捨てるこれで十分だと思っています。人は自由になりたいといいながら、その自由にしばられる。でも、自由とはなんだろと考えるときは自由なんです。

私のブログのテーマはミニマリストの視点から幸福や幸せについて考えるということで書いてます。私の中でミニマリストとはどういうものかというはほとんど結論が出ていて、あとは自分流のミニマリストというモノサシで、実行できるものは実行しています。

人それぞれ生活環境や状況が違うので、服を捨てる、ベットを捨てるとか、食器を捨てるなど、捨てることにこだわりますが、捨てることは目的ではありません。なぜ捨てるかのか、なぜ物が少ない生活をするかというと別のゴールがあると思います。そのゴールとは何かというと、私は快適に過ごせる暮しだと思っています。

幸福でもいいし、自由な暮しでもいいのですが、漠然としていて、はっきりしないので、快適な暮しにしました。ここでも、人それぞれ何を快適と感じるのかは、やはりわかりません。

人それぞれの幸福や自由や快適があって、まず、それを自分に問う作業が必要になります。それは外の情報にはありません。自分に中にあるものです。自分のしたいことを他人に聞いてもわかるはずないのと同じです。大事なのは何を幸福と感じるのか、どういった暮しが理想なのか目指す部分がはっきりして、あとは、モノの量を調整していけばいいと思います。

自由に生きることは素晴らしいが、反面残酷でもある。

生き方は自由ゆえに、残酷な部分が見えてきます。なんでもしていいと言われると、逆に困ってしまう。ある程度進むべき道が定められていたほうが、人は迷うことなく進めます。

しかし、迷わず進んだ道も迷った道も同じところに行き着きます。どちらかが正解でもなく、かといって正解がないわけではなく、どちらでも正解だと思います。大きな違いは自分が納得できるかどうかだと思います。最終的に行き着くところはみな同じです。

私は「一蓮托生」という言葉好きなのですが、この言葉に出会ったのは、私は今から15年ほど前で、今でも「生き方」について迷っていますが、当時は今以上にどう生きるべきか迷っていたので、いろんな本を読んではどう生きるべきかの答えがないか探していました。

生き方なら、哲学に答えがあるのではないかと思い読んだのが池田晶子さんや中島義道さんの比較的読みやすい哲学の本を読んでいました。特に池田晶子さんの本は今でも、ほとんどの書籍が本棚にあります。どの本か忘れましたが、その中にあったのが「一蓮托生」です。意味は結果はどうなろうと、行動や運命をともにすること。これは恐ろしく残酷な言葉のようにも聞こえます。

存在という不思議な言葉

どの本か忘れましたが、存在という言葉について書かれている本があって

人間の存在も宇宙の存在も同じ存在であり、存在の前では、なにをしようとも、どうあがいてもどうすることもできない

存在しないものはないと言葉では言えますが、矛盾しているのです。言葉遊びをしているようなものです。存在しかできない存在の謎を解くには、どうも言葉が圧倒的に足りないと思っています。

たとえば、宇宙の誕生の前はどうなっているのか?無はどこから生まれるのですか?と、文章にはできますが、私には答えがでません。存在の前では悩む事さえもできません。悩もうが悩むまいが存在しているからです。存在は存在することしかできないからです。これこそある意味残酷かもしれません。

存在に自由はないのです。存在が存在したくないといっても、それはできません。結局、存在からすると、そんなの知ったこっちゃない、存在してしまったのだから、存在するだけだ。こう思うと、なにか潔い気持ちになってきます。

人は人生に何かを求めますが、人生は黙ったまま答えを出してくれません。自分の生きた道が正しいのかまちがっていたのか、わからないまま終わるのではないかと思います。それでも、人は自分が正しいと思うこと、善いと思う事をするしかできない、しかし、なにが正しいのか、なにが正しいかわからないが、正しいというのはわかるという変な構造になっています。

生命は何のために存在しているのか?

これも難問だと思います。大人になれば、その問いに蓋をします。別の目的を探すはずです。もし、この問いを真剣に考え続けていると人はなにもできなくなり、精神がおかしくなってしまうはずです。そういう意味では哲学に安易に手を出すと、非常に危険だと思っています。

それでも知りたいと思うのは人間の欲です。だから、欲は苦しみを生むのです。なら無欲なればいいと単純に考える人もいますが、無欲とは欲を無くすとかきますが、これは究極の覚りをめざす場合に限らています。究極の覚りを目指さない人にっては、「欲の用い方を誤ってはいけない」という意味で理解すればちょうどいいのではないかと思います。

欲は道具です。例えば、火と同じだと思います。

火は使い方を謝らなければ、便利ですが、ちょっと間違えばやけどをします、時には、やけどだけではすまないこともあります。これは欲でも同じことが言えます。欲の場合も見えない分取り扱いが難しいのです、欲のために死ぬ人さえもいます。

さてミニマリストに話しを戻すと、ミニマリストでなくとも幸福を求めるなら、まず「信じる前に考えろ」ということで終わりにしたいと思います。

ではでは