賢くミニマリストになろう

あなたの正しさはあなたにとっての正しさではありませんか?本当の正しさとはお互いに正しいはずです。

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photo by simon.hucko

こんにちは パパQです。

今週はずっと対話について書いてきました。

もう書くことはないだろ

とブログを見ていたら、まだ書き忘れていたことが一つありました。

補足記事になると思います。

 

西沢さんのミニマリストは批判をなおざりにしている | The minindependentist

へコメントしながら気づいたことは、

意見は偏見だけど、価値ある意見にするためには、俯瞰したものの見方ができていないといけない。なぜなら、自分の願望や希望というのは、自分の視点しか見えていないということなので、その人には価値があるけど、他人にとっては価値がない。

価値がある意見にするためには、全体を見る努力をして、深い理解を深める必要がある。もちろん限度はありますが、相手の真意を聞くというのは、簡単な方だと思います。

ぶらぶらとサイトを見ていると

 としぞうさんーいつか朝日が昇るまで

「批判はされたくない」「かまって欲しくない」のにブログを公開することについて - いつか朝日が昇るまで

の記事が気になりました。
まとめると(誤解していたらすみません)

批判されたくないのになぜブログを書くのかという問いとともに

人間的な成長がなされる。そのためには他者からの的を射た批判というのは大変有意義に働くものです。

「批判されたいのではなくて,同じ考えの仲間が欲しいのだ」という考えでブログを始める人は多いのかもしれませんが,賛成意見もあれば反対意見もあります。

批判や反対の意見を聞いた方が成長する

確かにそうだと思います。

両者とも自分の意見の正しさしか見えていないからぶつかり合う

これを別の視点で見てみると

あまり書かれてはいませんが

ブログ側の意見からすると、

「批判を理解しない人、受け入れない人」が良くないと書かれているが、なぜ、批判を受け入れないといけないのか?成長するしないなんて関係ないし、それはあなたの価値観の押し付けではないか?

批判なのか、誹謗中傷なのかわからないようなコメントを残す方が悪い

こんな意見があるとすれば、コメントは側はどう思うだろう?

コメント側は

「批判を受け入れないほうが悪い」と考えているとすれば

両者はぶつかり合うでしょう。

どちらも良い悪いではなく意見としては両方正しい。

どちらも間違っていないと思います。

なにが違うかというと、立場が違うことによって、正しさは変わってしまうんです。

ブログ側が謝るというのは、スタート側であるから、間違いや誤解を与えたなら、説明をしているにもかかわらず、また説明しなければならない悪文を書いたという理由で、素直に誤解を解き、謝るところがあれば謝ればいいと思います。

では、コメント側の落ち度はなかったのか?

コメント側は批判なのか誹謗中傷なのかわからないコメントを残したり、感情を逆なでるような書き方や、誤解を招くような書き方に対する謝罪をする必要はないのか?

という意見が出てもおかしくないと思いましが、私が見る限りあまり書かれていません。

本当の正しさを求めるなら両者が違うことを認め、歩み寄らなければならない

忘れてはならないのは、

意見は偏見であること、自分が正しいという思い込みから、相手がそれを認めないことに対して、イライラしているに過ぎす、本当にその批判はお互いのためになることになるのか、価値観の押し付けではないかを考えて両者が歩み寄っていかないといけない。

「あなたのためにいっている」と言われると、私のためにいってくれていると考えるかもしれないが、よく考えると、それは善意の押し付けだと気づくはずです。

少し論点からはなれますが、善意や正義は正しいが、それを相手が認めないことによって、争いが起きるのは、おかしいと思うのです。

なぜ正義の見方は悪を破壊するのか?これは興味深いテーマだと思います。

ブログには多数の意見が書かれていますが、多くの意見は偏見であることを忘れ、自分の意見が通らない、または、相手が間違いを認めないから、感情的になっているという記事をよく見ます。

もし、互いに正しい意見であれば、相手も納得するし、もちろん自分も納得するはずです。

お互いの意見を理解して、本当の正しさを見つける努力が必要だと考えます。

正しい意見とはお互いにとって正しい

正しいといいながら、自分にとって正しい意見かもしれないと頭の片隅おくだけでも、俯瞰した見方ができるのではないでしょうか?

そうすれば、無駄な争いや誤解は減り、お互いの理解が深まるのではないかと思います。

これも一つの意見です。無駄な争いは必要ないとはいいきれません。無駄な争いがあるからこそ、人間は進歩しているという意見もあることを忘れないようにして、終わりたいと思います。

まとめ

正しさを求める議論であれば

その意見がどちら偏っていないか?

どちらの立場で書かれているのか?

をまず考えることが必要です。

なぜなら、立場が変われば正しいことが正しくないに変わる場合は、自分にとって正しいだけであり、お互いにとって正しいことではないのです。

お互いにとって正しさを見つけるのであれば、人はそれぞれ違うというあたりまえのことを忘れずに、お互いに歩み寄ってなにがお互いにとって正しいのかを探っていかなければいけないと思います。

謝ればいいのでは、片方の欲を満たすだけで、なにも進歩しないでしょう。

最後にこれも一つの意見です、意見というのは、自分の理想や希望が含まれます。それも偏見になります。しかし、自分だけの理想や希望がみんなのための理想や希望であるとお互いが理解し合えば、それは本当の正しい理想や希望になるのではないでしょうか?

それには今週ずっと考察していた「対話」が必要であると感じています。

ブログは対話の特徴を考えると、非常に適した分野だと思っています。

最近の悪いクセでまとめが長くなりました、

ここまで読んでくれてありがとうございます。

ブログ文化がすべての人にとって意味のあるものになることを祈って

これで本当に終わりたいと思います。

何かコメントあれば受け付けています。

ではでは

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