賢くミニマリストになろう

生きるとは感覚が刺激を受けているということ

There's Wild Pokemon in Tall Grass

こんにちはパパQです。7月も終わろうとしていますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。今月の話題はポケンモンGOでしょう。

私はDLしましたが、中国に滞在しているので、やっていません。中国でもVPNでgoogleにログインできるのですが、GPSが反応しません。日本へ帰っても、やらないと思います。

興味があるのは、何が多くの人をあそこまで熱中させることができるのかという点だけです。

今回はその辺も含めて、少し長めに書いています。

生きるとは感覚が刺激を受けているということ

人が生きるとは何かというと、単純にいえば、感覚が刺激を受けていると言える。

感覚とは仏教では眼耳鼻舌身意という六つの器官が世界を認識しており、本当にものごとを見たり聞いたりしているわけではなく、その感覚が刺激を受けていることを「見た」「聞こえた」と思っているに過ぎない。

つまり、ただただその刺激に酔うだけで、物事を正しく認識しているわけではなく、単に感覚を刺激しているだけでなく、刺激によって頭はまったく働いていない。

好き嫌いという感情さえも、感覚の刺激から起こるものであり、そこには客観的な論理性はない。面白い話や批判的な話は刺激があるが、それは刺激を楽しんでいるだけで、心が成長することは少ないだろう。

感覚を受けて楽しむ「刺激依存症」にかかっている。

経済的に豊かになればなるほど、さらなる刺激を求めていく。科学技術が発展した結果、生活が快適で便利になったようであるが、人の悩みは苦しみは減るどころか、どんどん増えている。

結局何が起こっているのかといえば、新しいことに慣れてしまった感覚は別の刺激を求めているだけで、心の成長はほとんど進んでいないのだろう。

便利や快適になることで、余った時間をどうするのかといえば、娯楽や快楽に使うしかないのでは、ほとんどの人間は成長することはないのかもしれない。

世界を認識する6つの器官

人間が世界を認識することができるのは、6つの器官に頼ることしかできない。これは恐るべき事実だろう。

六つの感覚器官の中で強烈に動いているのが「意」である。これが自分の考えや思考や意見が多大な価値を入れて、集まったものどんどん固まらせていく。

固まっていくだけなら問題は少ないが、そこに価値さえもいれようとする。それが主観となり、意見が対立し、苦しみが生まれることになる。自分の考えや意見には主観が入り込み、偏見をもつ、意見は偏見の領域を出ることは少ない。どこまでも感情とエゴに繋がれてしまうのが人間であり、価値があると思いたいゆえに、価値をつけようとする、無知という煩悩の罠である。

最近見た増田の記事には、自分に価値がないと思い悩み苦しんでいる人がいた。私からすると、それは自分に価値があると思っている証拠である。現実は役に立たなかったというジレンマに悩み苦しむが、自分に価値があると思い込むのは、生きることに価値があると他人やメディアから教えられたからだろう。

「生きることに価値がある」という意見にはなんの根拠もなく、単純に自分が生きたいから、価値があることにしているだけなのだ。価値があるからないのではなく、もともと価値をつけるようなものではないのだ。価値が付けられると思ってしまうのは、無知のなせる技なのであるが、一度価値を与えてしまうと、そこから抜け出せなくり、なぜか悩みや苦しみまで生み出してしまうのである。

自分の考えに価値があると思えば、必ず執着する。それが悩みや苦しみを生んでるのであるなら、そこに価値などないのだ。ようするに、他人から見れば生ゴミに価値があるんだと思い大事にしているのと同じなのだ。

刺激について話を戻すと、刺激がないことは恐怖につながっている。つまり、目が見えないことは恐怖だし、手足がなくなることも恐怖になる。最終的な死さえ6つの感覚が働いていない状態だから、怖くなる。死という定義は難しいが、おそらく脳は恐怖の限界を超えると、指令を出し死に至るのだとも考える。死の原因は脳の判断にあるといっても案外外れていないのかもしれない。

生命は必ず死ぬ。これは平等といってもいい。首相であっても、極悪人であっても、お金持ちでも貧乏人でも同じ。

生きるということは刺激を受けることである。この世のある食事や音楽や映画や読書や哲学や宗教さえも、刺激を得るためにやっている。問題は刺激に心は満足せず、どんどんエスカレートしてしまうことだろう。

感覚を刺激してくれるものなら内容はどうであれ、とにかく好きなものは大事にして、嫌いなものを避けようとする。自分が好きなもの、大事なものには価値があると思い込んでいる。価値を入れたものを失わないように努力し、もし失ってしまえば、悲しみくれ、精神的に弱ってしまい、生きる力を失う人さえいる。本当に価値があるかないかなんて考えることなく、ただ刺激を与えて、面白くなくなればさっさと捨てる。執着しないという点ではいいが、それではこころは成長しない。単に刺激を受けるものをとっかえひっかえしているだけで、まさに刺激依存症なのである。

感覚を刺激しなければ物事を捉えられないということは、物事の本質をみることができないのが凡人なのかもしれない。

仏教では「彼が感じたものを、彼は知る」という言葉があり、つまり、物事をありのままに見ることはできないということだ。

美しいという言葉でさえ、だれもが美しいと思うモノなどない。みんなバラバラであり、つまり、主観で生きている。それは自分の感覚であって、真実ではない。

私たちが世界を見るときに、何の疑いもなく、自分が世の中のことを見ている、知っていると思っているが、実際は感覚器官に触れた情報から判断しているに過ぎない。それまでのデータを集めて、区別して、判断している。美しい、汚い、価値がある、価値がない。そこに客観的なデータがないにも関わらず、それが真実だと思い込んでしまい、そこに煩悩という欲が混ざり、怒りや悩みや苦しみが生まれるのだ。

余計な悩み苦しみを生まないためには妄想を回転させないこと

例えば、見るという行為に好き嫌いという感情を乗せないこと。何かを見たら、そこでストップすることである。

これは感覚に刺激を与えることに慣れきっている人にすれば相当難しいことであろう。しかし、そうでもしない限り、人は妄想し始めて、真実でないものを真実と思い込み、何でも価値を与えてしまうである。

モノに価値があるのではなく、モノに価値があると思い込んでいる。しかし、その価値とは無知という欲が生み出したのもであると知らずに。

「何かが足りないから不幸せなんだ」と悩みや苦しみがあると思っているのは、真実を見ようとせず、自分の主観が妄想しているだけである。

熱中とは必ず冷めるときがくる。ポケモンGOも今楽しいからやっているのだから、いちゃもんをつけないでくれというブログもあった。

飽きたらすぐに止めることは、物事に執着しないという点では同じだが、それは飽きたからであり、やっていることといえば、刺激があるうちは熱中して、刺激に慣れてくると飽きて、他の刺激をもとめて、また熱中しはじめるだろう。これをずっと繰り返していると人はバカになるだけだろう。

世界は自分が見たいようにしか見えない。

これは強烈な真実である。真実を見ようとしないものは、あらゆるものが心を混乱させる。

妄想のまま一生を終える人生か、真実をみようと目を覚ます人生を選ぶか、それはあなた次第である。