あきらめによってなくしてはいけないこと
こんにちは パパQです。
前回の記事では
環境問題と言った個人の力では解決できないことを書きました。
で、解決策はあるのか?なにかできることはあるの?何もできないのにそんな情報を知ってどうなるのだろう?そんな疑問を持つ人もいるはずです。
同じような問題では、例えば、戦争や環境破壊や世界情勢について知ったとしても、目先の利益が手に入るわけではありません。だから、それは時間の無駄だし、何も出来ないのだから、知らない方がいいと思う人もいるはずです。
私も最初はそのように思っていましたが、最近は考えが変わってきました。世の中の多くの問題は個人の力では解決できないことが多いのは事実です。
しかし、それ以上に問題なのは、何もできないという「あきらめ」がその情報を知るというもっとも基本的なことさえも止めてしまうことだと思うのです。
この「あきらめ」に足りないのは「理想」です。
「あきらめ」と「理想」の関係性
理想と言うのは、叶わないことだから、理想なのです。
現実的な人はなるべく理想は考えるなと言います。無理なことを言わないで、現実を見ろという考えです。
しかし、理想を考えることができない人は、その理想を実現することは絶対できないのです。
その理想を考えるには、もっと大きな視点を持って情報を知るということが必ず必要になるのです。
しかし、この知るということも簡単ではありません。それは何が大事な情報なのか分かりにくいからです。あまりに自分と離れたことには関係性がつかみにくいのです。
操作される情報
多くの情報はテレビや新聞やネットで知ることができますが、多くの情報は操作されています。
報道しなければならない事件やニュースでも、テレビ局によっては、話してはいけないことが決まっています。いわゆるタブーです。なぜそのようなことが出来るのかというと、お金の問題なのです。
そして、ゴシップネタはその情報を隠すにもってこいの道具です。ワイドショーは真実を伝えようとするの気持ちは一切ありません。
本気で真実を報道していると思っているかもしれませんが、テレビの情報はどこまでが本当なのか誰にも分からないのです。テレビが言っているから正しいと思って見てしまうのです。
黙って耐えることが美徳の日本人
多くの日本人は黙って耐えることを美徳としています。多少嫌な事や問題があっても、私が我慢すればいいという考えです。
また、クレーマーという言葉があります。国や企業にとって必要な人なのですが、テレビの影響で理不尽な振る舞いをする人がクレーマーとして紹介されています。
我慢が美徳という考えは、国や企業に取って、とても都合のいいものです。なぜなら、個人の力ではどうにも出来ないという「あきらめ」を植え付けることができるからです。「あきらめ」は行動を起こす前の「知る」ということさえも止めさせます。
我慢の先にはゴールはあるのか?
我慢とは何かしらのゴールがなければ、それはただ忍耐を強いられているだけです。その結果、得をするのは上の立場の人たちで、弱い立場の人たちにしわ寄せがきます。その弱い立場の人たちが、どうにもならないという「あきらめ」から情報を知ることさえもやらなくなったとき、どうなるのでしょうか?
自分との関係性が掴みにくく、離れていることであっても、案外ものすごく近いところにあるということを発見する力は情報を知る上でも、大事なことではないでしょうか?