読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

行動に覚悟は必要なのか?

そのために死ねる何かを見つけていない男は生きるのにふさわしくないのではないか

マーティン・ルーサー・キング

こんにちはパパQです。

前回の記事に対して、反論ではなく、解説という形で記事を書いてくれました。

なぜ自己啓発はうまくいかないのか?自己啓発における行動・苦痛・認識 - グローバル引きこもりブログ

他人のブログに言及することは、ある程度テーマが決まっているので書きやすい反面、誤解を与えやすく、読んだ後に、なにか気持ちがスッキリしない、モヤモヤ感が残ることがあります。

もし言及するなら、お互いの共通する問いと答えを導き出す言及をしなければいけないと感じます。

相手の意見は間違っていて、こちらが正しいという反論の仕方はエゴでしかなく、正しい方向に行かないからです。

覚悟できるものを探すのは、行動するよりも困難である

私も自己啓発の本を読んでもあまり行動できていないと感じる一人です。

今回の記事の

自己啓発と現実逃避

正直いって、僕はいままで考えることで行動できたことは一度もない。

引用:なぜ自己啓発はうまくいかないのか?自己啓発における行動・苦痛・認識 - グローバル引きこもりブログ

前回の記事

ミニマリストが言っていることをまとめると、次の2つになるのではないか - グローバル引きこもりブログ

の最後の二つの結論の

考えて生きろ

と矛盾している気がしました。

そうではなく

考えるより、行動しろ

という結論になるのではないでしょうか。

だから、行動するには、気力と覚悟が大事であるという答えが出てきたのだと思います。

だけど、行動には気力と覚悟が必要であるとい結論(違っていたらすみません)は行動が出来ない人が見出す答えだと思います。

これでは覚悟がないから、何もできないんだという結論になります。個人的に覚悟できるものを探すのは、行動するよりも困難であると思います。また、行動出来ない人に対するアドバイスとしても、あまり効果がないと思われる自己啓発と同じではないかと感じます。

自己啓発がなぜ実行できないのかというテーマは面白いですね。

観察するということについて

いくら物事を観察して理解したところで行動できなかった人が行動できるようにはならない。

これはどう観察するかによると思います。

苦痛を苦痛であると認識すれば現実逃避もなくなり、必要な事ができるようになるのではないか。

観察していないのではなく、これが観察の結果だと思うのです。

苦痛を苦痛と認識すればいい、それによって行動できるようになる。

これをもう少し正確に書くと

  • 物事を正しく見る、ありもしない苦痛を感じないようにする。
  • といっても、実際は苦痛を感じる
  • と感じてる自分を観察することです。

つまり、苦痛を感じている自分を観察すること。

苦痛をこれは本来苦痛でない、と考えたら気力なんて出てこないと思うのだ。

それは自分の感覚を無視すること、自分で自分を騙してやっているのだから、やる気などでてこないでしょう。

自分の感覚を無視しない、自分が苦痛を感じているという事実を観察しているから、やる気がでるのだと思います。

観察することによって、その原始的な脳の部位から理性的な脳を部位を使うようになるからです。たとえば、自分を客観視することや、抽象度を上げることです。

それによって、見える範囲が広がり、自分の意識・無意識に気がつくことができて、問題部分が見えてくるのだと思います。

ラクになったからといってすぐに行動できるとは限りませんが、余計な妄想にエネルギーを使うことは減ると思います。

離れることによって、分かることがあると思います。

自分の行動、感情を理解しようとすると、一度自分を客観視する必要があるのではないでしょうか。

  • 自分のよさは自分では気がつきにくい
  • 他人の問題はよくみえるのに、自分のこととなるとさっぱりな人
  • 個人的には日本の良さは海外で暮らせばもっとよくわかるなど。

もう一つは大事なポイントは

行動した結果の苦痛と行動する前の苦痛では認識の仕方が違うということです。

行動する前の苦痛について

山田さんが述べているのは「行動する前の苦痛」だと思います。

行動する前に感じる苦痛とは恐怖である

なぜ自己啓発を読んでも行動出来ないかという論点から外れてしまうのですが、行動する前に苦痛を感じているかというと、過去の失敗の経験・トラウマや本能的な恐怖を感じる脳の働きに左右されているからにすぎないと考えます。

恐怖を感じる脳の仕組みは原始的な部分の脳の働きであり、脳が進化した今でも残っており、その部分が強く影響するのです。いわば、脳のクセです。それを自分で変えていくしか行動に結びつことはないと思います。

やらなけらばならないことが苦痛である場合、たとえば、テストがあるのに、勉強をせずゲームをする。これは単なる怠けでしょう。

行動したあとの苦痛について

苦痛になれてしまい、苦痛を苦痛と感じなくなる人もいます。社畜というのも、その一つだと思います。あまりにひどい状況にも、関わらず、それが当たり前になる。

苦痛を受けている状況になった場合、その苦痛になにか意味があること、これが成長のするチャンスと考える(リフレーミング)を起こし、自分の苦痛を無視する人もいます。

これは相手の立場、例えば、会社や上司の立場で物事を見て出てきた一つの答えだと思います。

ただこれをしてしまうと、苦痛を与えている人へに対する批判が見えなくなるのです。自分を守るためには逃げる判断も大事であるし、その判断も正しく観察するということなしにはできないと感じます。

行動には覚悟が必要

これは半分正解で、半分間違っていると感じます。

上にも書きましたが、行動よりも覚悟を持つことの方が数倍難しいからです。私からすると,余計に行動ができないような気持ちになります。

なにか面倒な事に取り組む場合は実際に取り組むのに想定される苦痛の数百倍の苦痛を覚悟しておくべきなのではないだろうか。

覚悟っていろんな意味で使われる言葉です。そして、何をすることが覚悟なのかということが見えにくい言葉です。

行動できない人にとって覚悟がないからできないだとアドバイスをもらっても、役に立たないと思います。

大変なことをするというのが具体性が欠けてよくわかりませんが、

人生は大きな選択から小さな選択までいろいろあります。行動できないといっている人は、大きな選択に迷っているのだと思います。逆に小さな選択、たとえば、今日は何を食べようという選択ならすぐに行動できるはずです。

ということは、行動とは選択をすることです。

なぜ、すぐに選択できるものと、できないものがあるかというと、そこに恐怖があるからです。

何を食べようかという選択に恐怖は思い浮かびませんが、たとえば、仕事や結婚となると、そこに責任や後悔が生まれ、それが恐怖となるからです。

しかし、その恐怖も観察してみると、実態がよくわからないということが多いのです。分からないから怖いという心理は誰にでもあるでしょう。

この恐怖には過去が大きく関係しています。

過去は変えられないと思っているなら、過去に体験したことで、判断しているにすぎません。

そういう人はトラウマになりやすい可能性が高いと思います。トラウマが厄介なのは、過去の記憶が新しく上書きされるからです。普通は過去の記憶はどんどん忘れられていくのですが、トラウマの記憶は、どんどん上書きされます。それも悪い記憶ばかりなのです。そうなると恐怖につながり、行動できないと言われています。

『広辞苑』によると、覚悟は

  1. (仏教語)迷いを去り、道理をさとること。
  2. 知ること。
  3. 記憶すること。暗誦(あんしょう)すること。
  4. 心に待ち設けること。心がまえ。
  5. あきらめること。観念すること、 と説明しています。

まず第一に仏教語としての意味を挙げているように、覚悟は「さとり」を基本とした仏教語だったようです。

覚悟とは両方「さとり」の意味です。

覚りとは、ブッタの覚りに達した、目覚めた人という意味です。悟は文字通り「さとり」です。この二つの意味を重ねているわけですから、すごい言葉だなと感じます。だから、やすやす「覚悟がある」などと、口にできないなあという感じになります。生きているうちに一つか二つ「覚悟」できるものが見つけられればと呑気に考えてしまいます。

行動できない理由は恐怖があるからです。

失敗する恐怖と損をする恐怖だといっていいと思います。

実際、考えれば考えるほど、思い浮かぶのはこの恐怖でしょう。

行動するには、その恐怖を正しく観察して、余計な恐怖にエネルギーを使わないことは大事だと感じます。

だから、考えて考えて行動できない人は、直感で動く、即決力を鍛えるといったことで行動できるようになるのではないかと思います。

行動できる人はバカじゃないといけない部分もあります。

失敗を恐れないバカとでもいいましょうか。

あるいは、自分がバカだと気がついている天才といいましょうか。

正しく行動できる人とは、正しく観察ができる人であり、自分を客観視でき、過去に悔やむことなく、将来について意味もなく不安がることない人だと感じます。

自己啓発が行動につながらない因果関係は難しいですね。

何か思いついたら書きたいと思います。

ではでは