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感情に流されないために私がしていること

コラム

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(中国東北にある瀋陽 ビルやアパートが立ち並ぶ風景は私が住んでいた日本とはまったく違う。4月中旬は昼と夜の気温差が激しい)

仏教を学んでいると、日々感情に流されていることと理性的に考えるとはどういうことかをだんだんと理解してくる。

何を思うかは人それぞれ自由と思っていたが、好き、嫌いといった文章を読んだ後、そこに反応してしまう自分がいた。自分は自由でいいけど、相手の自由は許さないというエゴが隠れていた。

例えば、自分が好きなもの嫌いと書いてあったり、尊敬している人・ものを馬鹿にされたら、まるで自分の人格を否定されたかのような気持ちになる時もあった。今考えると、それは感情に流されているということであった。

怒りや悲しみを感じたという文章はどうだろうか。好き嫌いより、怒りや悲しみは個人で度合いがわかりにくいかもしれない。なぜか、怒りに対して、怒りで返そうとしてしまうことや、悲しいと書かれている文章に対して、そこに怒りで返そうとは思わなかった。悲しいと書いてある文章に対しては、理由は関係なく、その人をこれ以上、悲しませるようなことはしてはいけないという気持ちになっていた。私は悲しいと書かれると、返す言葉が限られた。逆に怒りに対しては、どんな過剰な返答でも許される気がしていた

私は感情に流されいようにするために、感情が書かれているところを発見したら、そこで相手が何を感じても自由だと思い止どまることにしている。何を感じても自由であるということを頭に置けば、そこで自分の感情の波はかなり抑えらえる。そうすれば、怒りに対して、怒りで返すこともなく、怒りや悲しみ対しても、それは正当な理由があるのか、ないのか正しく判断できるからだ。次に、その感情の理由が書かれていないかを探してみる。多くの場合、そこに何かしら理由が書かれているか、または、まったく書いていない場合のどちであることが多い。

理由が書いてある場合は、ほぼ主観で書かれているといっていい。どんなに理論武装しても感情にいかなる理由もなし。これは仏教を学んで気がついたことであった。

他人の気持ちはあいまいに分かり、自分の気持ちはよく分かっていると思っているが、なぜそう感じたのかを考えると、そう思ったからという結論しか出てこない。つまり、分かったつもりになり、それ以上、分かろうとしないのかもしれない。なぜそうなるかといえば、感じるほうが先にあり、あとからなぜそう思ったのかという理性が働くからであり、感情の前に理性が働くことはない。これが理由がすべて後付けである理由である。

自分の感情をどこまで分かることができるのだろう。それを表現するには言葉が足りない気がしてならない。分かっていることは、気持ちはコロコロ変わり、つねに何かに反応・依存しなければならない仕組みになっているからではないだろうか。