いい人になろうと悪い人になろうともそこには「楽」はない
こんにちは パパQです。
久しぶりに本棚にある本を引っ張り出して読んでみました。
池田晶子著「知ることより考えること」
学生の頃に購入した本なので、もう15年前になる。
誰でも、人生とは自分とはといった一般的に「哲学」というジャンルに分けられると思っていることに興味を示し時期がある。
よく分からないので、本を読んで見ようと、本屋さんのいつもほとんど誰もいない哲学書のコーナーに行くと、難しいそうな本がズラリと並んでいる。それでも読めそうな本のタイトルを見つけては、パラパラ開いては閉じ、開いては閉じていた。
池田晶子の本をどうやって見つけたのか、あまり記憶がない。おそらく、大学の図書館の哲学書のコーナーで見つけて、だから、どの本を読んだかもあまり覚えていない。
最近よく見る「いい人をやめなさい本」
15年前のことでも覚えていることは、何度も思い出すからだろう。
その頃に読んだ本で、今でも覚えているタイトルは
当時、別にいい人ではなかったが、自分の真面目な部分が殻になり、自分を出せないと思っていた。今は、自分を出す出さないということにはそれほど執着がないので、その殻は薄くなっていると思う。
本の内容はほとんど覚えていない。「いい人」というのは会話などで出てくる、あの人はいい人という一般的な意味合いで言葉を理解していると何がいいのか悪いのか分からなくなってくる。
「いい人」とは良い人なのか、善い人なのか?
いい人をやっていると疲れる。悪い人だという評判は、容易にくつがえらないから安定がいい。縛られない、失望しない、傷つかない、重荷にならない-疲れない「つきあい方」を説く
いい人でも悪い人でも、失望するし、傷つくし、重荷になるし、疲れるというのが正直な感想である。いい人をやめれば、楽になれるというのは、勘違いであって、それはお金があれば幸せになれるという古典的なものとも言える。
いい人になろうと悪い人になろうとそこに楽はない
もっというと私は楽というものは幻想か妄想だと思っている。楽が楽であるためには、苦がなければなりたたないからであって、その楽がずっと続けばいいと思うと、それが苦の原因にもなってしまう。
そんな考えになったのは、ブッタの「生きることは苦である」という言葉を考えた結果である。
考えることは悩むことではない
池田晶子の話に戻そう
この人の本には「考える」という言葉がよく出てくる。考えるとは悩むことでも、社会のニュースに対して意見をいうことではなく、自分自身について考えることであると理解している。
悩むとは損得勘定しているだけで、考えているわけではない。本来の考えることは分からないから考える。考えている対象が分からないから、悩むことさえできないのである。
社会のニュースを知りながら、自分とは、人生とはといったことを考えることは難しい。それができると思っているのは、これも勘違いであって、それは考えることに慣れていない人が、私は考えていると勘違いしている行為なのである。
なぜなら、なにもないところでも、人は考えることができる。現代人は情報は増えたが、古代人と考える力は変わっていないか、逆に、いらない情報ばかりに頭を使い、考える力は衰えている。
対社会ということでしか自分と人生を見られない
自分や人生を社会を通しか見られないとしたら、人生の真実である「生きて死ぬこと」を考えないようになる。
臭いものにはフタをして、見えないようにしたとしても、突然それはやってくる。社会や他人を頼りに考えることは、自分や人生について考えることには役に立ちません。
人が生きて死ぬことは自分で考えることであって、それを他人に見せたり、評価されてもしょうがないのである。
だって死ぬのは自分なんだから。