賢くミニマリストになろう

「ミニマリストは批判をなおざりにしている」へコメントしましたよ

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photo by jDevaun.Photography

こんにちは 連続投稿中4日目のパパQです。

炎上記事につられて、対話について言及していたら、

数あるミニマリストの中から、私の記事を読んでいただいた方が、わざわざ取り上げてくれていました。

 

西沢さんのminindependentist

ミニマリストは批判をなおざりにしている | The minindependentist

 

もう炎上も下火になっているところで、まだそんなこと書いているの?とツッコミが入るかもしれないですが、

そして、いったいこの記事を誰のために書くのか

自分のため、ミニマリストに興味ある人のため、西沢さんのため

はっきりしませんが

前々回と対話について書いてきたので、ここは対話に挑戦するつもりで書きます。

それから、議論をしたくないのと、議論になる題材なのか、よく分からない部分もありますので、付け加えておきます。

 

今騒動が起こってから自称ミニマリスト各位からミニマリズムに関して寄せられている批判に真っ向勝負した意見は提出されていない。

ミニマリストとミニマリズムと分けて使っている理由はあるのでしょうか?

今回の炎上記事については、あまり読んでおりません。なので、今回の炎上記事について真意が分からないので、言及していません。

もし「あの子が勝手にやったんです。ミニマリズムとは関係ありません」という意見をとうとうと述べたなら、それは品性のかけらもない下衆な意見

下衆ですか・・・結構まともな意見だと思いましたよ。

あくまで個人ブログですからね、外から見ると、ミニマリストという言葉があれば一括りにされるのでしょうね。同じグループに見られたくないという人もいそうですが

話題からそれますが、

ミニマリストは周りになかなかいないという環境が多いので、仲間意識は強いのではないかと思います。

私は炎上記事に対しては興味がないのですが、炎上記事が多発するブログ文化の気持ち悪さの原因には興味があるので、考えてみると感情論と対話というキーワードが浮かんできたのです。

仲間内でほめ合う空気は、そこから何も進歩しません。批判や反論があってこそ、見方がひろくなることもあります。と言いながら、個人の意見はどれも偏見だということ覚えておいてください。どんな意見も調べるとどこかおかしなところが出てくるんです。(…略)だから、価値はないと思った方がいいとちぐはぐな文章で本旨を捉えにくいのですが、おそらく、

意見を持つより、真理について知った方がよっぽどいいでしょう。

が筆者の最も言いたいことだとすると、その真理はどのようにして今日まで発展してきたのかを思い出すべきだと僕は言いたい。

引用がながくなりましたが、

私の文章力のなさ、説明しているのに、さらに説明しないといけない「悪文」を書いてしまったところはすみません。

「比べたら」

という意味を加えたほうがよかったですね。比べると価値の差があるだけで、「意見には全く価値がない」と理解しないでください。

人間の認識の上には意見を発して真理に向かう以外に方法がないではないか。ましてや常識になるにはなおさらではないだろうか。

確かに、そうですね

気になるのは、

「意見を発して真理に向かう以外に方法がない」

確かに、地球は丸いといった科学的な真理は意見(データ)集めていけば、証明できると思います。(ここで意見とは?何を指しているのかは置いておきます。)

それとは違った真理の発見もありますよね

覚ることによって真理を発見したお釈迦様の「生きることは苦である」

これは真理ですと説いています。

お釈迦さまは誰かに意見をして、真理を発見したのではなく、覚ることによって真理を発見した、だから、意見を述べてはいませんよね。

意見を述べる前に、真理を発見する天才もいます。

「地球が丸いことを真理として僕らはその知識を享受しているわけだ。」 

これも確かにそうですが、また別の視点ではこうも言えると思います。

「科学的な真理は知識になるけど、智慧にはならないといえるかもしれません。」

上の意見は非を自身に認めず、ネットに巣食う文句言いたいだけの読者なる集団がいると仮定して、そんなやつらが悪いんだ! という態度を終始一貫してとっている。これは不誠実だ。

 

「そんなやつらが悪いんだ」という態度に見えていたら、すみません、誤解です。

いい悪いといいたいわけではないです。無感情になるのは無理です。余計な感情が現れる前に、冷静になって真意を理解するように努めることで、正しく理解できると思うからです。

正しく理解とは、議論をすることによって、正しいとか間違っているということだけでなく、対話によって理解が深まることができる状態という意味もあります。

不誠実だとイライラされているとしたら、それはあなたの意見の押し付けです。本当に不誠実であるかどうかを確認することこそ、誠実なコミュニケーションではないでしょうか?

相手に不誠実だと書くなら、その前に、記事を引用したと一言連絡するべきだとは思いませんか。

(この一文が誤解を与えているあれば、すみません)

誠実さを相手に求めるなら、記事に対してコメントを書いていますと一言連絡して真意を確認する方法もあったと思います。

記事を見つけない限り、誤解されたままになります。私は連絡されなくてもいいですが、あなたのせっかくの意見も無駄になるとは思いませんか?もし価値のある意見であれば、自分だけでなく、相手にとっても価値のある意見のはずです。

意見や批判は何のためにするのか?私は相互の理解を深めるため、深い理解を得るためだと思っています。誰も答えてくれない議論を一人でしても、疲れるだけでしょう。

私も誠実であることは素晴らしいと思いますが、それを相手に一方的に押し付け、あなたもしなければならい、というのはおかしな理論だと思います。私は正しく、あなたは間違っていると(間違っているとは書いていないかもしれません)書くのは傲慢なだけであり、誰も理解してくれようとはしません。

だからこそ対話が必要だと思います。まあ、連絡するしないは礼儀だと思いますが

ブログは特に感情的な決めつけから誤解を生み、またそれが誤解を生みという形をとりやすいと思います。議論も対話も疲れますが、対話は心がスッキリします。それはお互いの意見のズレを認識し、新たな深い理解が生まれるからです。

「正しく見る」という言葉はお釈迦様の八正道の考え方です。

正しくは正見(しょうけん)です。ありのままにみるとは簡単そうですが、人は自分の価値観や主観や知識や生まれ育った文化が影響します。

人はありのままにみるというより、あってほしいままに見るのです。だから、意見は偏見になるのです。無数の偏見によって、余計な妄想と願望が生まれてくるのです。それが人間に余計な苦しみを生む一つの原因になっていると思います。

結論、批判や誹謗中傷すらも汲み取れ

感情的にならずに、相手の意見を正しく理解する努力は必要だと思います。

まとめ

今回は誤解を解くだけになり(解けていないかもしれませんが、)、深い言及はできませんでした。

何かありましたら、コメント受け付けております。