桜を見ながら考えた「存在の不思議と他人は鏡である」ということ
4月は桜の季節ですね。
桜を見て思うこと
人間は桜を見て、美しいと思ったり、これからがんばろうと思ったり、
それぞれいろんな思いを浮かべます。
桜からすると、人間という生き物は、なに勝手なことを思い浮かべてはよろこんだり泣いたりしてんだろうね
そんなことを思っているかもしれません。
私はなにかが存在している不思議は気づくと、一瞬頭がくらっとします。
存在はそれ以上でも、それ以下でもない。
その存在という形でしか、存在できない不思議があります。
その存在しているものを見て、どうのこうのと勝手にこちらの感情を貼り付けて、喜んだり、悲しんだり、悩んでいるのですから、おかしなものです。
人は他人を見ているようで、実は自分でわかる範囲しか見えない。
本を読んでも、自分が理解できる範囲しか読むことはできない。
どんなことをしても、全部「自分」なんですよね。
だから、相手を変えるより、自分が変わった方いい。というより、自分が変わると、相手も変わっているように見える。
相手が変わったように見えた時、自分が変わったから見えるのです。
だから、自分が成長するしかありません。
世界は素晴らしいと感じること
世界が素晴らしいから素晴らしいのではなく、世界はいつどんなときも同じように存在しています。
ただ、その素晴らしさに気がつくか、気が付かないかの差です。
気が付くには、世界を変える必要はありません。自分が変わればいいと思うのです。
というか、そのようにしかできない。これも存在の不思議の一部だと思います。
相手も自分も世界も宇宙も同じようなものなのかもしれません。
これに気がつくと、他人に対して優しく接するしかないような気がします。
他人に怒っているようで、結局は自分を怒っているのですから。
これが慈悲という気持ちなのでしょう。
今日も見に来てくださってありがとうございます。このブログでは、私が感じた「なにか」を自分のことだけとは思わず、多くの人にとって大事なことだと思うことをブログにしています。このブログを読んであなたの生活に小さな変化を起こすことを願っています。